さあもん写真館でなく、さあもん写心館です。
 
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午後一で、レイキの遠隔アチューンメントの申し込みの返事が来てから、急に泣きが入ることが多くなりました>挨拶

例のこころのリハビリを受けて、20年以上も自分がずっと世界とのかかわりを拒み続けてきた、という状態から、まるで自分が新しく生まれたかのように、世界とのかかわりを自動選択する形になりました。
赤ん坊は、生まれる前は子宮の中という自分だけの世界にいて、生まれてから外の世界とのかかわりが始まります。それと一緒ですね。

それに伴って、自分という存在が、周りの人の心に残らず、人々や世界になんら影響を与えないというのは、すごく寂しいと感じました。

いままで、芸能人やスポーツ選手などがニュースや芸能誌などが注目を集めるのが、私はすごく嫌だったんですね。シャドウの投影です。
自分だけの世界には、注目してくれる人は誰一人いないから。
ただでさえ、自分からは世界に干渉しない、そうして引きこもってる状態でしたから、そうしたテレビ・芸能系のメディアから距離を置いていました。
(まぁ、ここ数年はテレビがつまらないから見ない、というのもありましたが)

実を言うと、2日間のリハビリの初日の昼に、かつて一緒に遊んだことがある友人が急死したという知らせがメールで入ったのですが、そのときの心境は「あまり関係の深くない人だから、葬式やお線香上げに行かないよ」という感じでした。
極端な話、わずかに心に残る誰かが、生きようが死のうが、そんなの俺には関係ない、そういう感じ方だったのです。

リハビリが終わったときに、やっぱり線香を上げに行くことに決めました。
向かう途中で「誰かが死んでも、だれも線香を上げに来てくれないのは、悲しいし寂しい」、そう感じて涙が出てきました。

すでに活動を終了してしまった、ねこねこソフトさんの18禁ビジュアルノベル「銀色」や「朱 -AKA-」にも、その辺に関して、印象深いシーンがありました。
一つは「銀色」で、名前を与えられなかった娘(名無し)が、瀕死のときに「生きた証が欲しい」と願うシーン。
もう一つは「朱 -AKA-」で、還す(=記憶を消去する)能力を持った男が、「還りたいか?(辛い記憶をなくして、楽になりたいか?)」と瀕死の少年(外見は少女のそれ)に問うて、「彼女の生きた証がなくなってしまうから」と、彼がそれを拒否するシーン。

どっちも、自分の生きた証は、自分の中ではなく、自分を覚えているものの中にあるということを示しています。

そう、私は、いや俺は、自分が今ここにいるという証が欲しい。自分の存在を、誰かの心の中に刻んでもらいたい。
それこそが、世界と関わる、人とつながるということの本質なのかも知れません。
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